tennis88’s blog

上海でテニスをしています。

スポーツの意義は自己表現にある

お久しぶりです。

今とてもおもしろい本を読んでいるので、その文をまるごと転載させていただきます。

 

スポーツの意義は自己表現にある

私は、スポーツをすることとは絵画を描いたり、音楽を演奏したり、文章を書いたりすることと同じで、自己表現の一つだと思っています。自分の感じ方、考え方を、プレーを通じて表現するのです。

とはいえ、絵画、音楽、文学などと違って、スポーツには常に二者の間に勝敗を決するという特徴があります。ですから、スポーツのプレーは常に、自己表現でありながらも、勝利に向かってもっと合理的な方法であるべき、という課題を背負わされます。

スポーツの監督、コーチは、勝利に向かうためにもっとも合理的だと自分が信じるプレーをあらかじめ用意し、それを実施させようとします。理想はその監督、コーチの感じ方と、プレーをする選手の感じ方とが一致することですが、現実にはそう簡単にはいきません。ある1つのプレーに対して、それが勝利に向かうためのもっとも合理的な方法と感じるかどうかは、人によって違ってきます。

プロスポーツの場合なら、指導者と選手の間に感じ方の違いがあっても、指導者が強制的に自分の指示する方法をとることが許されます。なぜなら、彼らは互いにビジネスとしての契約の中で結果を求められているからです。指導者はその方法で失敗すれば責任をとって解雇される危険を背負い、また、選手は与えられた条件の中で結果を出すことで高額な年棒をや草奥される、という関係の中で両者は生きているからです。

しかし、そうした関係をアマチュアのスポーツ、とくに成長期の青少年の指導に当てはめるのは間違いです。なぜなら、成長期のスポーツは、ビジネスとしての結果を求められていないからです。

成長期の青少年は、大観衆を楽しませ、テレビの視聴率を稼ぎ、スポンサーの名前を出すためにプレーをしているのではありません。

私は、成長期の青少年がスポーツをする意義の中で、もっとも重要なことの1つが、さきほど挙げた自己表現だと思っています。

(略)

スポーツの指導者は、青少年の選手が、一つ一つのプレーの場面において「自分はなぜそのようにプレーしたのか」ということを考え、主張できるように育てなければならないと思っています。

しかし現実には、その逆で、日本のスポーツ界には、「選手はあまり考えなくていい」、「指導者のいうことの黙って従いさえすればいい」、という考えが根強く残っています。

 

【少年スポーツ ダメな指導者 バカな親】

著:永井洋一(スポーツジャーナリスト)

 

この本は子供にスポーツをさせる親御さんや、指導者の立場にあるコーチや監督、顧問。そして選手本人にも読むと為になることがたくさん書いてあると思います。

厳しければ厳しいほどいい。スポーツの教育での体罰が許させる。子供は自分の意見を言ったらいけないなどという、日本の古風なスポーツの風潮に対しての本です。